2021,08,28, Saturday
夏休みが40日もあったあの頃。
なのにどうして毎年ラスト10日ぐらいになって、手つかずの宿題と格闘するハメになるのか…。
特に“自由研究”という、子供から自由な時間を奪うアレ。
全くやる気のなかった僕は、前年に姉が作った貝の標本を若干アレンジして提出し、バレなかったのをいい事に、
毎年ビミョーに配置やら入れる箱やらを変え、小学校卒業まで提出し続けました。
オトナからは『貝の採集に夢中な子供』に見えたことでしょうが、実体は『オトナを騙すことに夢中な子供』でした。
オトナを騙すことに夢中なのは、
今も一緒ですけど。
皆様に気持ち良く“騙されていただく”ために、もっか稽古に熱中しているところです。
稽古場はいい空気です♪
演出の小笠原響さんは、知的にして温厚なロマンスグレーのジェントルマン。
その手法は、あらゆる小さな疑問をおろそかにせずコツコツ掘り起こしてゆくうちに…他の人物や先の場面について 新たな発掘、じゃなかった,発見がある、という感じで、
なんだか 考古学的というか…。
夏休みに、小笠原教授のゼミの合宿で
新種の恐竜を手探りで発掘している、みたいな。。
そんな、いつもの芝居作りと一味違った楽しさに満ちています。
さて、以下
今夏の僕の自由研究です。
題して
『The Weir~堰~その意味深なタイトルへの考察』。
物語の舞台であるアイルランド西部の田舎町に電力会社の作った堰(せき=小さなダム)があることが、劇序盤に 酒の肴に少しだけ語られますが…物語への影響はさほどありません。
では一体何故タイトルに??
“堰”という言葉から思い浮かぶ慣用句はただ一つ、『堰を切ったように話しだす』。
登場人物たちが、酒の勢いも手伝って
ついつい語るつもりのなかったことまで話してしまう。堰を切ったように。もしくはダムが決壊したかのように。
それぞれの人物たちの“心の堰”には、いったい何が沈殿していたのか?どうして溢れ出したのか?
「まぁそんな意味合いで『堰』というタイトルなんでしょうねぇ」…と、響さんも稽古の初期におっしゃっていた通り、
まずこれが意味深なタイトルの直接的な由縁でしょう。
また、文献資料によれば、
原題『The Weir』(ザ・ウィアー)の
weir(堰、小さなダム)という単語が、
weird(不思議な、奇怪な)という単語に発音を含め似ているから、という解釈もあるそうで。
舞台の田舎町は、妖精伝説が伝わる古い土地なのです。
さらに『ウィアー』が、
we are(私たち)に聞こえるから、という説も。
まるで駄洒落のようですが、
『都会から一人来た女性に対する、田舎男のオレたち』の物語。…と読み取れるのだとか。
僕はこの
『ウィアーweir=私たちwe are』説が、意外とお気に入りで。
何故かというと… の前に、
ちょっと脱線しますヨ。
『みんななかよし』というNHK教育のドラマがありましたねぇ、昭和50年代。
当時の小学生は道徳の時間に視聴覚室で見せられたものでしたが、
問題はその主題歌。歌詞は以下↓
口笛吹いて空き地へ行った
知らない子がやって来て
「遊ばないか」と笑って言った
一人ぼっちはつまらない
誰とでも仲間になって
なかよしになろう
口笛吹いて空き地へ行った
知らない子はもういない
みんな仲間だ なかよしなんだ
↑これを皆さん、どう解釈してました?
『知らない子を仲間に入れてあげて、一緒に空き地で遊んだ。その子ともなかよしになったから、もう知らない子なんていない』
というのが、道徳の時間的には正しい解釈らしいのですが、
その当時の、僕の解釈は以下。
『知らない子に突然「遊ばない?」と言われて、「いいよ」と答えるわけがない。
断られたその子はトボトボと去っていき、
結果 空き地に残ったのは いつものなかよし仲間だけ。』
ひねくれた解釈だと言われるんですが、
現実問題、いきなり知らない子と空き地で遊ぶ小学生なんていません!
僕はいつも、知ってる友達とだけ遊んでました。
(歌詞を確認するためググってみたら、同じような解釈をしていた人が数人いました!みんな仲間だっ♪)
翻って、
『We are』。
都会から来た女に対しての
田舎の男たちのオレたち4人、の物語。
…だけじゃない気がするんですよねぇ~。
町から知らない女がやって来た。
「誰とでも仲間になって、なかよしになろう」と迎え入れ、
「知らない女などもういない、みんな仲間だ」 と、
『We are』=5人に、
…果たしてなるのか、ならないのか。。
皆々様におかれましては、
そんなことも探りながら御観劇いただけましたら、と思っております。
| 稽古場日記::The Weir ─堰─ | 11:19 | comments (x) | trackback (x) |
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